清水浦安さんに訊く③縄文ブーム

縄文人たちは何を考えていたのか

新谷 今、縄文ブームらしいのです。そういえば清水さんに20年前に初めてお会いしたとき、一緒に新潟の縄文の遺跡を見に行きましたね。

清水 朝日山系にダムの工事中に縄文の遺跡が出てきて、そこがダムの底に沈んでしまうので一般公開したのを一緒に見に行きました。そこはマタギの里でもありました。高坂和導さんも一緒でしたね。そして新谷さんには数年前、カエル(飯島敬一)さんのところで再会したのでしたね。

新谷 その頃、清水さんは縄文にはまっていたそうですね。

清水 その頃、僕はお弁当屋さんのチェーン店を手放し、デリバリーのピザ屋さんの会社の代表になっていたのですが、毎日夜中まで仕事をしていてストレスが溜まっていました。そんなある日、縄文の時代があって、それが1万年続いたということを知りました。そして戦争もなかった。いつから始まったのかというと、稲作が日本に伝播したのは弥生時代。瓊瓊杵尊が高千穂の嶺に降りたときに手に携えていたのが稲穂と三種の神器です。瓊瓊杵尊が皇祖皇宋に、そして神武天皇の時代になっていきます。

でも縄文というのは、今から15000年前から始まっていて、日本の歴史の始まりと言われています。戦後になって初めて教科書に「縄文時代」というのが記載されて定着しました。明治時代初頭、エドワード・シルベスター・モースというアメリカ人の考古学者がやってきて、大森の地形がおかしいと調べたのが大森貝塚です。発掘したら縄文の土器や貝塚が出てきたのです。貝塚は日本に2500くらいありますが、土器のほかにネックレスや腕輪などの装飾品も出てきました。

新谷 清水さんはその縄文人が何を考えていたのか、知りたかったのですね。

清水 僕は土器とかそうしたものにはまったく興味がありませんでした。エジプト文明だって5千何百年前、ヨーガだって5千何百年の歴史があると言われていますが、縄文時代は1万年なんです。そこに人間がいて、骨の形も現代人の僕たちと同じ。ということは心もあったはずです。いろいろなことを思ったり考えたりしていたはずです。今とは価値観が違って心がとても平和だったのではないでしょうか。日本全国各地に縄文遺跡はありますから、人もそこそこいたはずです。三内丸山遺跡にも何回か行っていますが、そこは大きな集落で住居は竪穴式に石を組んで柱を立て藁で屋根をふいていました。暖をとるために真ん中は暖炉になり、しかもちゃんと煙が抜けるようになっています。じゃあこの人たちは何を考えていたのだろう、と僕は思ったのです。

今、縄文に人気があると言われましたが、人気があってあたりまえで、それは原点に還れということではないでしょうか。僕は彼らに非常に衝撃を受けて、ものすごく興味を掻き立てられました。先日も北海道で地震がありましたが、現代の生活には電気は不可欠で、それが止まると生活できなくなってしまいます。ガスも水道も使えなければパニックを起こしています。大阪でも、岡山でも、広島でもそうでしたね。ところが1万年前は電化製品も電気もありません。電気の生活が始まったのはここ100年です。

縄文人は生命エネルギーを自在に使っていた

だけど人間が体を持っている以上必要なものは当時もありました。気候変動もあったでしょう。その中で衣食住、住むこと、食べること、着ること、やっぱり裸で歩いているとは思えません。各地の土器を見ると弥生式とはまったく違います。弥生式では水瓶も溜めることが目的ですから、効率よく水がいっぱい溜められるようになっています。ところが縄文時代は火焔土器に代表されるように、底が小さくて入口は火が燃えたような形の火焔状になっていて、水をいっぱい溜めるというものではないのです。そしていちばんの特徴は縄絵紋様です。縄を編む文化というのは繊維があり、紐を作っていたということです。材質は自然のもの、麻みたいなものだと思いますが、それをDNAの二重螺旋状に編んでいた。それを粘土の上に置いて抑えると縄目模様がつきます。それがみんな違っていて個性的ですが、これはたぶん女性が作ったのでしょう。

もう一つ興味を持ったのが、うちの女房によく似ているのですが、縄文のビーナスに代表されるふくよかな女性たちです。土偶だけでなくす焼きの粘土板もたくさん出ています。それも女性をかたどったものがひじょうに多いのです。女性美の価値観も今とは違いました。どんな女性が理想かというと妊婦さんです。妊娠している女性が豊かさの象徴でした。そこには生命が生まれるということ、生きるということ、次の子孫につながっていくことへの祈りが込められています。

僕はこの縄文の縄目を見ながら、生き方とか考え方(生き方というのは思い方ですから)、何を大切にしていたのかということをずっと考えていました。日常的に見ていたのはほとんどが人為的でない自然です。まわりを見渡しでもビルなんてないのですから。もちろん燈もありやしない。だけど、電気以上に明るく見えるものがあったのです。それは朝日が上がれば太陽であり、夜になれば天の川が手に取るように見えました。雄大な星空が手に取るように見えた。彼らはそんな世界観、宇宙観の中にいたのです。川の水も音を立てて流れていたし、風の音も聞き分けていたでしょう。

縄文は宇宙文明だった

縄文は宇宙文明だというのは、宇宙の価値観だったからです。縄文時代には方位石というのがあって東西南北が示され、太陽が昇る位置も計算していました。星座石という石もあり、大きな石にすべての星を刻んでいました。彼らは私たちとは違って暗闇に慣れていますから夜でもよく見えるのです。私たちには見えない星も見えていました。悩むことも少ないわけですから、食べて生きていくために自然の中から学び、どんぐりを食べたり、栗を食べたりしていました。そして集落の玄関は南に作り、自然のエネルギーが全部集まるように設計していました。

火焔土器もエネルギーが器の中に集中するように作られていたのです。僕は実際、自分で土器を作って実験したこともあります。その当時、ばかなことをいろいろやっていました。縄文と弥生の土器を作って調べてみたら、縄文土器に入れた水は腐りにくいのです。縄文土器の中は炭がついていないのに、外側は焼けていますから外側から焼いていたのです。そうして水を沸かしていて、その水の中にエネルギーを取り入れていました。

新谷 朝日村の縄文遺跡でも、清水さんは土器を一つ一つ手にとり、これは何に使っていたのか、説明してくれていましたね。エネルギーを取り組む器だったり、治療器もありました。

清水 あの頃は気が狂ったように縄文にはまっていましたから、入っちゃいけない洞窟にも入ったりしていろいろ調べていました。そういうところにも人が住んでいた形跡がありました。縄文人は肉眼だけでなく霊眼も使っていました。中村天風先生は間脳から先にできるから目は後だと言っていますが、魂はまず松果体の中に入ります。第三の目がいちばん先にできるから、そこに魂が入るのです。第三の目ではエネルギーもプラーナなども見えましたから、プラーナがいちばん集まる食物を食べていました。その食物も生きるために必要なものだけをとります。蓄えるとか消費をするとか、そういう考えはありません。そして女性は祈りの対象というか、子孫につながる生命繁栄の存在でした。

僕の考えでは縄絵文様というのは、肉体先祖をつなげていく二重螺旋のDNAを見ていたと思います。だから縄文のマークはぐるぐる回っているカタカムナ、隼人族のマークなんです。あれは永遠の生命の循環を表しています。宇宙はメビウス、永遠の生命がずっと続いていく生き物だということを表現しているのです。彼らはいのちの本質がわかっていました。だから争う必要がなかった。食べ物を蓄える必要もないから無欲です。死という観念も永遠の生命に還るという感覚でした。

平和で豊かな暮らし

新谷 今そのことを人々は思い出す必要があるし、思い出そうとしているのでしょうね。

清水 今の文明は行き詰まっています。この前の北海道の地震でも電気が消えたら、夜空の星がとてもきれいだったと言っている人が結構いました。そういえば3・11のときも、自然災害だけでなく原子力発電という文明の危機に直面しました。そんなことからみんな原点に戻ろうとしていますし、多くの方が目覚め始めているような気がしますね。でも、まだ多くの人は電気がないと怯えます。
縄文時代にも寒い冬はありました。そして気がついたのは、縄文人って豊かだったのではないかということです。なぜかというと家が4軒ありました。それは食にもつながっていて、この季節にはこういう果物がなる、この季節は台風が来る、と、春夏秋冬フォーシーズンの家が4軒あったのです。しかも所有権はありませんから、どこでも自由に住めました。

新谷 その頃はお金の代わりに貝を使っていたと言われています。

清水 貝は交換手段に使っていました。たとえば海のものと山のものを交換するために貝は交換の証に使っていましたし、またネックレスやブレスレット、イヤリングの交換にも使っていました。文字は必要ありませんでした。霊感があって相手の言いたいことがわかっていましたから意思疎通には困らなかった。いわゆる以心伝心です。今は不信感の中で自我本位で生きているから、相手が何を言いたいのかわかりませんが、その頃は人だけでなく自然とも対話しながら共に生きていました。台風や災害が来ることも察知していましたから安全な場所へ移動していたと思います。

新谷 私たちは今、そういう暮らしへの回帰があるということですね。

清水 ワンドロップ(魂)はみんな持っていました。もともと人間は宇宙から来た魂だということもわかっていました。イギリスでもストーンサークルやストーンヘッジがありますが、それらも共振しだすといわれていますが、日本でも環状列石といって、いろんなストーンサークルがあります。あれは上から見ると見えやすいものであるし、方位石やパラボラアンテナのような20メートルくらいの人工的なお椀状のものもあります。意識は上からも見えたいたので、それでエネルギーを表現していました。

それも僕は実験しました。地鎮祭のときに4隅に竹を立ててお祓いをしますが、そういう場を作って、中に入ったらどういうことができるか、縄文の縄のようにぶあつい麻で編んだ縄を100メートルほど買って渦巻きにし、隼人族のマークを作ってどんなエネルギーが体感できるかやってみたこともあります。その外と中はまったく違うのです。渦巻きの中を通っていくと、いろんなものが抜けていくのがわかります。渦巻きも環状列石もそうですが、そうすると上からエネルギーが降りてきやすくなります。彼らはそうしたエネルギーを利用しながら住居を作っていました。

貝塚も発掘現場をいろいろ調べてみると、全国で200種類くらいの貝や魚を食べていたことがわかります。ゴミ置場はちゃんと分別され、しかもその貝はきれいに洗われていました。これも実験したのです。北海道や沖縄では風化サンゴを今も売っていますが、あれは水や土地を浄化します。けがれ地がけがれ地でなくなるのです。ですからきれいに洗った貝をいったん天火で干して貝塚にしている形跡があります。そうすることで周波数も変わり、エネルギーの浄化ができました。そういう知恵があったということです。

集落は円形ですが、天円地方といって、天は丸く地は方形という宇宙観からきています。宇宙は円だから宇宙エネルギーを集落に集めるためにはそういう形になるのです。環状列石も丸です。
相撲の土俵も四角の中に丸を作っていますが、その真ん中にエネルギーが集まりますから、そこで裸になってぶつかりあう相撲はご神技であって、勝ち負けはないのです。シコも踏んで地ならしをしながらエネルギーを高めていました。人間はみんな神の宮という考え方です。そして妊婦さんは生命が次に生まれる神の豊かさの象徴です。次につなげていかなければ続きません。神の宮を維持するために食べるわけです。邪念がないですから、食べるものは自然のもので、かつ集落はエネルギーが高い。水だって腐らないようにエネルギーの入る甕を使っていました。魂は天のもの、肉体は地のものとして還元していました。
埋葬をするときは壺の中に今でいう体育座りのようなかたちで遺体を入れていました。いつでも生きて行動できるようにしているのです。それは肉体は死んでも魂は死なず、すぐ蘇ることがわかっていたからです。

母系制社会で女性は神だった

新谷 平和だったのは、いのちの本質がわかっていたからでしょうか。

清水 そうです。しかも母系社会だったから戦うことはなく平和だったのです。土偶を作るとか何かを編むというのも、女の人中心の社会でした。それに対して役割分担で狩猟をする人もいたし、槍を作る人もいました。毒を使って狩猟していたという人もいますが、食べるものに毒を使うことはありません。クジラも食べていましたし、クジラの骨で作った装身具もあります。驚くのはナンマンゾウもいました。日本は大陸と続いていたからです。
僕は夢中で調べていたときは発掘現場の地中に入ってみたり、星明りで本が読めるかどうか試したりしていました。暗いところにずっといると暗闇でも本当に見えるようになるのです。

新谷 縄文遺跡を見にいったときも、日が暮れていたのに、その一角だけはほんのり明るく、暖かかったですね。

清水 そうです。今、縄文に関心を持っている人が増えているというのは、みんなその記憶を持っているのですよ。ワンドロップ、自分の命に聞くということは、かつて縄文人だった頃の記憶があるからです。そうするとその中に祈りじゃないけど、恵みを与えて暮れる自然は全部神だったし、生命を産む女性も神だった。それが祈りの対象であり、豊かさの象徴であり、そういう命の記憶だったと僕は受け取っています。

新谷 私自身、20年前にはわからなかったあの縄文遺跡の真実が今、意識の中で立ち上がってきたような感じがします。清水さん、縄文のお話をされるときは本当に楽しそうに、子供のような目になっています。この続き、また聞かせてくださいね。今日はありがとうございました。

?12月8日(土)、ワンドロップ・プロジェクト発起人清水浦安さんをお呼びして、お話会「清水浦安さんに訊く」を開催しますので、近日お知らせします。

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リエゾン概要

代表 新谷直恵

出版社勤務を経て、編集会社リエゾンを設立。
2010年からフリーの編集者として仕事をしてきましたが、
2017年12月に[リエゾン、]として活動を再開。
本作りは主に聞き書きを中心にしながら、出版企画にも携わります。
また本作りを中心にしながら、著者のお話し会やセミナーを開催していきます。